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2013年 8月13日

    五感に刻まれた惨状の記憶
〈8月9日の被爆者証言〉

井黒キヨミさん 87歳

 あの時、私は19歳で、爆心地の浦上地区から山を越えて3・2キロメートル離れた病院で住み込みの看護見習いをしていました。原爆が投下された8月9日の午前11時2分は、昼食のカボチャを煮ている最中で建物の中にいたため、強い閃光(せんこう)と爆風を受けながらも運よく難を逃れました。

 午後になると、全身黒焦げの負傷者が病院にやって来るようになりました。院長が近くの国民学校に設置された救護所に駆け付け不在だったので、私たち看護見習い4人が、2人1組で負傷者を救護所まで運びました。病院の前で動けなくなった人たちもいたので、何度も往復しました。

▼耳に残る「水をください」

 翌朝からは救護所で院長の手伝いを始めました。学校の体育館いっぱいに引かれたむしろに横たわるのは、裸同然の姿で男女の判別もつかないほどの深手を負った人たち。心臓のピクピクした動きが分かるほど胸の肉をえぐられた人もいました。それでも、私たちができることは、消毒液をガーゼに浸して傷口に当てることぐらいです。

 そばを通るたび、みんなが口々に「水をください」と訴えるのですが、院長に「飲ませたら死んでしまう」と固く禁じられていたので、飲ませてあげられませんでした。あの時聞いた悲痛な叫び声は、68年過ぎた今でも耳の奥に残っています。

▼火葬の煙が忘れられず

 原爆投下から3日が過ぎても、運び込まれる負傷者の数は減りません。このころには傷口からウジが湧き、ひどい悪臭がします。手の施しようがない人たちが次々と亡くなっていく現実に、私は炊き出しのおにぎりがのどを通らなくなってしまいました。

 そして校庭では、周辺からトラックで運び込まれた死者の火葬も始まり、その煙が空一面を覆っていました。あの惨状は一生忘れることができないでしょう。

▼「戦争が憎い」

 原爆の被害は、その時だけで終わりません。傷一つなく元気だった私の友達は投下から2カ月後、髪が抜け、体中に赤い斑点が出て、熱にうなされながら亡くなりました。放射線で遺伝子を傷つけられた人は、その障害を2世、3世に残す不安にさいなまれています。

 原爆が奪ったのは人の命や人生だけでなく、動植物も死滅させ、都市をも破壊しました。こんな残虐兵器が使われる戦争。私は憎みます。

 私たち被爆者は生きているうちに伝えなければなりません。戦争を知らない若い世代に、あのおろかさや恐さ、むごたらしさを。(8月8日、被爆68周年原水禁世界大会の「被爆者との交流―語る会」で。文責・連合通信編集部)
                

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