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2013年 3月19日

たった1世帯だけがすみ続けている 
〈今、被災地では〉上/老夫婦の話

宮城県女川町竹浦を歩く

 東日本大震災から2年を迎えた3月11日、宮城県女川町竹浦(たけのうら)を歩いた。津波でほぼ壊滅したこの地で、1世帯だけ残って住み続けている老夫婦がいる。菅野日満雄(ひまお、80)さんと多智子(たぢこ、77)さんだ。「1世帯だけ居るのでね。浜の人も含め、みんなビックリしてるよ」と語る多智子さんの顔に屈託はない。

▼多くは今も仮設暮らし

 震災前、県指定の拠点漁港を持つ竹浦には66世帯、188人が浜を弓形に囲み住んでいた。今では65世帯が去り、その多くは仙台市などで仮住まいを続けている。

 自宅は2階建て。浜から緩い坂を30メートルほど歩き、海面から10メートル弱の高さの敷地に建つ。同じ浜育ちの2人がここに新居を構えたのは、53年前のチリ津波で多智子さんの実家が1階の半ばまで水に浸かった体験があるからだ。それで、家を建てるなら「少しでも高台に」だった。「でも、(今度も)同じだったね」と苦笑いする。

▼津波に耐えた柱

 激震の日、津波が来ると直感した日満雄さんは、自宅からさらに上った納屋の庭に小型船を引き上げた。直後、大津波。地震で散乱した食器や家具類を片付けていた多智子さんも、急いで坂を走った。

 高台にある一時避難所の元小学校から戻ると、浜周辺はガレキの山。自宅は屋根瓦も外壁も壊れ、階段を上がった2階の天井も突き破られた。母屋の隣に建てた2階家の民宿は、ひっくり返って屋根が真下になった。

 それでも日満雄さんは一時避難所から毎日通い、朝食前から周りのガレキを片付ける。「北海道の『舎弟』(実の弟)も駆けつけた」。そして5月、家の損壊状態を診断した大工が「この家は柱一つ傾いてない」という言葉に意を固め、その年6月、早くもリフォーム工事に取り掛かった。
 「気仙大工だった親父が頑丈に造ってくれた。そのおかげだよ」。日満雄さんは、十数メートルの大津波に耐えた柱をしみじみ見つめる。

▼祭りは昨年復活

 竹浦では11人が犠牲になっている。日満雄さんは「そのうち6人がオレら夫婦の実家や親戚だ」と話す。大震災前日の10日は、99歳だった義母の葬儀があったばかり。そうした身内の墓が、浜から高台に登る中腹に並んでいる。
 「墓守だな」「そうね」。2人が、浜に住み続ける訳がここにある。

 それに、自宅から見える竹浦の浜は漁師夫婦が営んできた暮らしを今もほうふつとさせる。「ちっちゃい頃からの私らの想いがしみ込んでる。柔らかい波が白くゆっくり落ちていくところとか、今日は風が凪(な)いでる、さあ漁ねとかね。気が落ち着くのね、ふふふ」。

 今年の3月11日にはお寺で三回忌が行われた。久しぶりに帰ってきた若い女性らは「こんな時やお祭の日しか集まれないので」。そして4月29日は竹浦の祭りだ。太鼓や小道具は番屋(漁師の作業小屋)と一緒に流されたが、祭りは昨年復活した。女性の一人は昨年の写真を指差してこう言った。「これ私。持っている獅子頭は、おばあちゃんが布で作ってくれたの。今年も浜のみんなで踊り舞うの」(川島左右喜)

                            

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