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2013年 8月 1日

    立ち直れずに取り残される
ルポ〉原発事故の被災地は今

除染進まず、生活再建見えず

 東日本大震災と福島第一原発事故から2年以上経つ中、被災地は復旧や復興から取り残されつつある。除染作業は進まず、生活再建の見通しが立たないためだ。7月29日。現地に入った。

人口だけで語れぬ深刻さ/南相馬 

 南相馬市中心部の原町区では、車が多く行き交い、一見すると普通の生活を取り戻していた。(写真・立ち入りが制限されている飯舘村長泥地区。民家の雨どいの下では空間線量が毎時200マイクロシーベルトを超えることもあるという(29日) 
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 原発事故直後の2011年3月末、もともと7万2000人いた同市の住民は約1万人にまで減ったが、現在は5万人近くまで回復している。昨年9月以降、国による市民生活や行政活動の制限がほぼ解除されたためだが、市職員労働組合の鈴木隆一委員長は単純に喜んではいなかった。

 「長期間の避難生活の疲れもあって戻ってきている」

 国が直接、除染することになっている南部の小高区は、さらに深刻だ。沿岸部は見渡す限り野原が続き、人気の少ない幹線道路沿いの店舗の中で、パチンコ屋だけが昼間からにぎわっていた。1年以上前に警戒区域指定による立ち入り制限はなくなったが、除染は手付かずの状態。市民からは「国はやる気があるのか」とあきれ声が聞かれた。

▼子どもが戻れず

 そのせいで、若い世代の帰還の足は重い。市内小学校の児童数は、震災直後と比べて5割、幼稚園児の数は4割に満たない。市立総合病院では、相次ぐ若手看護師の退職で人手が足りず、ベッド数は半数が稼働できていない。鈴木委員長は「いまだに子どもを持つ世帯が戻れない。戻った市民も放射能汚染への不安を抱えながら生活している」と明かす。
 除染が進まないのは、作業で大量に発生する汚染土の処分計画が定まらないからだ。市はおおむね3~5年保管する仮置き場を決めるのに精いっぱいで、中間貯蔵施設と最終処分場は何も決まっていない。

避難長期化、悩み深まる/飯舘 

 「私の集落はおりに閉じ込められている」。こう話すのは、飯舘村から福島市内で両親と3人で避難生活を送る菅野幸一さん(49)だ。同村は原発事故直後に大量の放射性物質が飛散。自宅のある長泥地区は、今なお空間線量が毎時6~7マイクロシーベルトもあるため「帰宅困難区域」だ。菅野さんは「戻れる線量まで下がるにはあと150年は必要。生きている内には帰れない」とつぶやいた。

 村の除染作業は、6月末時点で予定された宅地の2%しか進んでいない。その上、長泥は対象外。それでも菅野さんは、ふるさとへの思いを断ち切れず、悩みは深まるばかりだ。

 「避難先の福島市も線量が決して低いわけではない。最終的にどこに住むのかまだ判断できない」

 避難生活の長期化で帰還を諦める村民も少なくないという。中には「除染にたくさん税金を使って白い目で見られるくらいなら、その分の費用で村を出て行く」という半ば苛立ちの声もあるそうだ。菅野さんは言う。「原発事故で受けた被害や苦しみは人それぞれ。『心を一つに』と言われても、現実はそれどころではない」

▼再稼働「信じられない」

 そして今、危惧しているのは原発事故の風化だ。

 「電力会社は原発再稼働を申請しているが、行き場のない核廃棄物の最終処分の問題は今も解決していない。事故で多少は方向転換すると思っていたが、先送りをして経済成長だけを追っている。信じられない思いだ」

 長泥地区には、新たに仮置き場を設置することが決まっている。菅野さんは「汚れたものは、汚れた場所に持っていけというのは悲しいし、悔しい。原発被害の苦しみが福島だけの問題とされ、取り残されつつある。沖縄の基地問題と同じだ」とため息をついた。

 事故を起こしたことに加え、その後の対応の不手際続きで、政府と電力業界に対する国民の信頼は大きく失墜している。事故から何を教訓に学んだのか、今進められている復旧と復興は被災者が望むものなのか、疑問は尽きない。(記事と写真、新田諭)

                 

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