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「私が楽しい」で続いた30年 |
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震災にも負けず復刊 |
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自宅を兼ねた事務所には、身長を軽く超える2メートル以上の津波が襲い、1階の事務所部分はヘドロに覆われました。あまりの様変わりに「もうだめだ。どうやって生きていこう」と目の前が真っ暗になりました。 宮城県石巻市でタウン誌「いしのまきらいふ」(以下「らいふ」)を編集・発行する亀井一実さん(63)は、東日本大震災の被災直後、30年間続けてきた「天職」を捨てかけた。しかし、そんな諦めはまもなく雲散霧消した。 私には、やっぱりタウン誌作りしかなかった。建物自体は残ったわけだし、事務所を修理し、できる限りでいいから再開しよう。そう心に決め、夏ごろから動き始めました。 ▼戻ってきた広告主 「らいふ」は、地元紙「石巻日日新聞」の読者約1万5000世帯と広告主に月刊で配られる20ページほどの情報誌。郷土史や地理のほか、商店や市民の声などを掲載し、収入源である100軒近い広告主も地元の企業や商店だ。復刊に向け、亀井さんはその1軒1軒を訪ねて広告掲載のお願いに回った。 半分ぐらいになると覚悟していたのに、ほとんどの方が戻ってきてくれました。「いつまで休んでるの」とうれしいお叱りも受けて。私は昔かたぎの人間だから、仕事の打ち合わせはメールで済ませず、直接会うことを大事にしてきた。それで多少なりとも私の人となりが分かってもらえていたのかもしれません。 顧客を大切にしてきた一方、近隣の住民とは「回覧板をやり取りするぐらい」だった。震災でその疎遠さを思い知らされた。 近くの小学校に避難しても知り合いが2、3人しかいなかったんです。「○○さんの安否知らない?」と尋ねられても答えられません。「地域密着をめざしてタウン誌を作ってきたつもりだけど、自分の町内のことを何も知らなかった」とショックを受けました。数日後に避難所を出てからは、近所同士で集まって食事し、暖を取ったりしてつらい時期を乗り越えました。 ▼いつもどおりの誌面を 復刊にこぎ着けたのは、震災8カ月後の11月。この間、広告主からは「被災の深刻な写真やエピソードは新聞で十分。ホッとする誌面を」とお願いされていた。だから、再開を強調せず、「石巻弁」の紹介や飲食店のオススメを取り上げるといった今までと変わらない記事を淡々と載せた。 いつもどおりにすることで、震災で傷付いた市民に安心感を持ってほしかった。私自身も「頑張って復刊しました」とは強調したくなかったので。読者に直接かかわりないことだし、私よりも大変な状況で努力されている人がたくさんいるわけですから。 11月号が読者の元に届くと、予想外に多くの反響が寄せられた。 事務所には連日電話が掛かってきて「あんた、頑張ったねえ」「待ってました」「(事務所がある)湊地区は被害が大きかったでしょう」と。そんな励ましに、時には電話口の相手と一緒に泣きました。震災で石巻から離れざるを得なかった人にも「送ってほしい」と頼まれて以来、毎月30人ほどに送っています。津波で流されてしまった30年分のバックナンバーも、広告主や読者、元スタッフが少しずつ届けてくれて、今では数年分がそろいました。 「らいふ」が復活した一方、私の古巣でライバルでもあった石巻初のタウン誌はそのまま廃刊に追い込まれてしまいました。ホッとする半面、切磋琢磨(せっさたくま)できる相手がいなくなりさみしいです。 ▼「私が知りたいからやる」 労働組合や市民団体の機関紙は、さまざまな理由で媒体や部数の減少が止まらない。同じ編集の仲間として、亀井さんに継続の秘訣(ひけつ)を聞くと、「自分も息子に継いでほしいと考えたことはない。絶対にもうかりませんから」と冗談めかしく言った後、こう続けた。 読者から「来月も楽しみにしてるよ」と言われたくてやっています。「誰のため?何のため?」などと難しく考えず、私が知りたいから、食べたいから取材する。それで分かったことを自分だけにしまっておくのがもったいないから、読者に伝えているだけです。 「しなければならない」という考え方では苦しくなるでしょう。私のポリシーは「明日できることは今日やらない」。後で困ることもあるけど、長続きのコツだと思っています。 こうした作り手の気持ちが、読者を楽しませてファンを増やす。亀井さんを取材中にも、彼女の元同級生が楽しさいっぱいの「らいふ」をもらいに事務所へやって来た。(連合通信) |
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