住民の要求をシナリオ化しプロジュースする能力こそ大切に
   
         現場技術者の苦悩に耳を傾ける
   公務員技術者のあり方を考える−宇治支部土木事務所分会・中川 学
 私たちの携わる土木行政の技術職場では、国民生活の基盤となる社会資本整備を主な業務としているが、高度経済成長期以来の業務量の激増と急速な技術進歩の中で、業務の進め方が大きく様変わりしてきている。従来は直営で実施されていた技術業務はそのほとんどがコンサルタントに委託されるようになっており、その一方で、行政内では職員定数の削減なども相まって、技術職員の多くは住民対応や雑務に追われるなど多忙を極めている。 そして深刻な問題は、こうしたことの当然の結果として行政内での技術力が空洞化していることで、遠からず社会資本整備への国民の理解は失われ、技術の退廃を招くことが危惧される。いや遠からずというよりは、「無駄な公共事業」の現実などはそれが既に現実のものとなりつつあることを示している。しかもこうした動きは加速され、公共サービスの提供を丸ごと民間任せにするPFIや、公共工事を企画段階から、施工に至るまでを一括してゼネコンに委託するCM方式等が推進されようとしている。
 しかしこうした制度の下では、住民要求を把握し事業に反映させることが放棄されるのは明らかであり、依然として技術職員の存在は不可欠である。今や行政内での技術力の回復は焦眉の課題であるが、その可能性はどうであろうか。またその技術力とは、おそらくは従来のそれとは違った「行政技術者としての専門性」というものと考えられるが、果たしてそれはどのようなものであろうか。それらを探る手がかりとなる一文としたい。

技術者としての力量とは

 先ず「技術力」ということについて、一般的にはそれを設計計算の能力などと考えがちであるが、行政技術者としては割り切って考えざるを得ないのではないだろうか。技術が高度に発達した今日、技術基準等が精緻に定められているが、これらに逐一精通することはほぼ不可能に近く、また大量のデータの電算処理のためには日進月歩する機器設備が必要があり、まさしくこれらを専業とするコンサルタントが必要とされている。
 これに代え行政の役割とは、主権者である住民の意向を把握しこれの実現に努めることにあり、その場合に技術的判断や技術的検討が必要であるから行政技術者の存在意義があるわけである。そこでは技術的・専門的事象を一般市民が理解できるよう「翻訳」することや、詳細な検討が必要になった場合などに、コンサルタントの技術者と「専門用語」により協議することなどが求められている。
 表現を変えて言えば、行政技術者に求められる専門的力量とは、構造計算などの計算能力というよりも、地域と住民の要求を科学技術的に解決するために、そのシナリオを書き、プロデュースする能力と言い換えることができるだろう。

技術の現地性を考える

 そもそも何のために造るのか、どこに、どのようなものを造るのか、それらを検討し判断するのはまさしく行政の役割である。そしてそのためには地域の情報(地形地理的考察、地域の歴史、人の関係、など)に精通することが不可欠だと私は考える。
 しかし多自然型川づくりを標榜して「不自然な」川づくりをしてみたり、景観への配慮などと称して巨大な「壁画」を描いてみたり、自然の一部である河川を遊園地と錯覚したかのように勝手に「ゾーニング」し、「親水」整備してみたり、「同業者」による、こうした幼く、未熟で、稚拙なグランドデザインに眼を覆わねばならないことがしばしばである。何故こういうことになってしまうのか。
 端的に言えば、デザイナー(技術者)がその「場」に存在していないか、或いはその「場所性」を理解していないことによる。
 コンサルタントはデザインするための各種の基準や手法(メニュー)には長けている。しかしその「場」についての情報にはうといのが一般的である。それを把握することによりコンセプトを作り、デッサンすることこそは行政の役割である。全国どこにでも、無国籍の、金太郎アメのような構造物が溢れてきたのは、設計業務をコンサルタントに丸投げし、そうした結果、行政技術者が本来の任務を放棄してきたからではないだろうか。
 土木構造物というものがそれぞれ目的を持って作られるのは自明のことであるが、これを別な形で表現すれば、その「場」にあるべきものがあるべき形で存在するというように、そのデザインには「必然性」が備わっていなければならないというのが私の持論である。高度経済成長期には無機質で無表情な構造物が大量に作られたが、ある意味ではそれがこの時代には必然的なデザインであり、打ちっ放しのコンクリートの方が、私には金をかけた「饒舌(じょうぜつ)なデザイン」よりも好ましく見えてくる。
技術基準(マニュアル)をどう見るか
 土木構造物の設計のためには、各種の技術基準が必須のもので、当然これらの制定のためには科学技術の最新の成果が集約されており、高度な専門的内容を含んだものとなっている。しかしここに定められた各種の基準を金科玉条のように扱う態度は正しくない。学習すべきは、その基準値を定める根拠となった科学技術的知見についてであり、その結果の数値等ではない。
 そもそもこうしたマニュアルというものは、高度経済成長期に均質な工業製品を大量生産する必要から定められたもので、技術内容の画一化・標準化と表裏一体のものである。自分の頭で考えることをせず独創性に乏しい人物が「マニュアル人間」と呼ばれているように、「マニュアル完成し技術衰退す」ということも見落としてはならない側面である。

技術の社会性を考える

 公共事業の目的は社会資本整備にあるのは言うまでもないことであるが、近年それらの成果が見えにくくなってきている傾向がある。それは社会資本のストックが増えたという量的効果によることもあるが、同時に見逃せない問題は、安全で快適な生活空間が当り前とされる社会風潮の中で、際限のない整備を求める傾向のあることである。今日の技術水準からすれば大抵のことは実現可能であるが、果たしてその要請が社会的に見て正当なものかどうかは慎重に検討される必要がある。
国土研で調査した、ある市の公共工事を例にこの問題を考えてみたい。
 この事例は、数f程度の住宅地域の浸水解消を目的とする事業であるが、現状の道路幅員は四b程度と狭く、地下埋設物も輻輳しているため既存の排水路の拡幅が困難である。このため下流河川までの約四〇〇b間で、シールド工法により地中一〇bの深さに管渠を布設しようとするもので、工事費は約一〇億円とされている。
 ここでの問題点は、大きくは次のようである。
 先ずは莫大な工事費用。わずかの地域の便益のために、また年に数回程度しか使われない施設のために、これだけの巨費をかけてもいいのかということ。第二は、構造が圧力管方式のサイフォンとなることから、維持管理が容易でないということである。さらに狭隘な場所での大規模工事により工事公害の発生が必至と考えられ、便益を受けるはずの地元住民から反対の声が起きている始末である。
 技術的に有効な代替案がない場合、私は、こうした小さな住宅地域という条件に合った、ヒューマンスケールの規模の計画にすべきと考える。つまり例えば、目標とする排水流量を落としてでも、開削工法により現況水路の拡幅を可能な規模で行う、或いは流域での雨水貯留や浸透策の推進などにより、被害程度を軽減する等の対策が考えられる。
 技術の進歩ということでは、昔はテレビ電話に進化することが真剣に語られていたが、現状ではそれが可能であっても家庭には普及していない。なぜなら、誰も電話に出るために逐一正装するようなことを望んでいないからである。技術の進歩や適用を考えた場合、それだけを一人歩きさせるのではなく、こうした社会的要請を把握し、またそれと折り合いをつけるという発想が必要である。

技術者としての感性

 最後に“技術者としての感性”ということに触れておきたい。
 幅一〇b程度の小河川での護岸災害復旧工事の例であるが、工事実施前には川の中央に中洲があり、周辺はとろ場となっていた。これを利用し釣り人が糸を垂れる光景がよく見られたが、工事の完了時に河床を均したために中洲もとろ場もなくなってしまった。特段気を止めなければ、ごく普通のやり方ではある。
 しかし何か大事なことが欠けてはいないだろうか。
 道路工事であれば、沿道には人の暮らしがありそれへの配慮は当たり前のことである。同様に、川にも魚や多くの水生生物が生きており、その環境が大事だよ、というのが今日求められている土木工事の質なのである。そして更に今一つ重要なのは、そうした魚の生きる川の存在と共に、川と人々の暮らしとのつながりが健在であることで、それこそが“生きた川”と呼べるものである。
 なんでもないようなことだけれど、こんな風なことを思いやれる技術者が求められている。マニュアルに長けたというよりは、おそらくはそんな技術屋としての“感性”が問われているのだと思う。(住民と自治3月号より)