2月4日〜6日、京都自治労連青年部「沖縄平和の旅2006」が開催され、府職労から7人の青年が参加しました。京都ほどではありませんが予想以上に寒い沖縄(今年一番寒さだったとか…)の旅ではありましたが、沖縄戦の生々しい歴史、戦後も続く米軍基地の問題について学び、交流しました。 普天間基地が見渡せる嘉数高地 ![]() また普天間基地は返還が約束されていますが、数メートルのコンクリートで覆われている滑走路などその跡地をどうするか、米軍が責任をもつわけではありません。ひとつの問題の解決が新しい問題のスタートにもなっています。 ![]() 観光客誘致のためにつくられた「道の駅」から、4000メートルの滑走路が2本のびる広大な嘉手納基地を望みました。それでも視界に入るのは基地の4分の1程度。普段の休日は飛ばない戦闘機が耳を劈くような音を立てて飛び立ちました。 世界の米軍基地の中で4番目の大きさの基地(嘉手納町の83%はこの基地と嘉手納弾薬庫が占有)、それが沖縄にあります。 ![]() 83人が集団自決したチビチリガマ 1945年4月1日米軍が沖縄に上陸。翌2日、上陸地点より1km先にあるチビチリガマに避難していた住民約140名中83名が「集団自決」したといわれています。それから38年後、住民の約6割が18歳以下、2歳や3歳の子どもも含まれていたことがようやく明らかになりました。現在も内部には眼鏡や入れ歯、ボタンなどの遺品が残されていますが、遺族の要望により「墓」として中への進入は禁止されています。 入り口の碑には『「集団自決」とは「国家のために命をささげよ」「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」といった皇民化教育、軍国主義による強制された死のことである。』と刻まれています。「集団自決」という言 ![]() 新たな基地の「再編・強化」ノー、辺野古の海 ![]() 住民だけでなく環境保護団体による反対運動も広がり、97年12月の住民投票では過半数が「反対」の結果となったものの、12月24日名護市長が基地建設を容認して突然の辞任。また、「振興策」として1000億円が投じられるなど日本政府が介入して住民が賛成・反対に分断されたといいます。その後も沿岸や海上での「座り込み」などねばり強い反対運動の成果もあり、「海上案」は廃案になりますが、05年10月の米軍再編の「中間報告」で沿岸に隣接して基地をつくるという「沿岸案」がもちあがりました。 ![]() 婦女暴行やレイプ、誤射など戦後も続く犠牲の中、『沿岸案』を白紙にすることができたのは「みんなが反対したから」と中村さんは静かに語ります。「沖縄に基地があるのは日米政府の問題であり、沖縄の問題ではない。そして沖縄で基地建設が進められれば、全国でも進められるだろう」 「基地は住民を守らない」沖縄に来るとこのことをはっきり感じることができ、何のための、誰のための基地なのかを考えさせられました。 |
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