国連憲章の一歩先ゆく日本国憲法

九条は戦争と平和の分岐点

憲法記念日によせて・小森陽一東京大学教授に聞く

 憲法は国民が守るべきことが書かれた法律ではありません。憲法は国民が国に発した命令であり、私たち1人1人が国の統治権をもつ主権者であることを定めた最高法規です。
 大江健三郎さんら9人の識者が呼びかけた「九条の会」が、日本国憲法を自分のものとして選び直そうと訴えているのも、国の主権者として、あらためて憲法を権力に対して使っていこうという趣旨からです。
 国が戦争を起こせば、国民主権を保障することはできません。そこで、前文は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのない」ようにと宣言し、9条で戦争の放棄と戦力の不保持を掲げたのです。
 憲法は、19条から23条で、思想・良心、信教、表現、学問の自由なども明記しました。戦前の反省から、言論活動が自由でなければ、国は戦争をする危険性があるという、国家権力への深い洞察が文章の連なりに込められています。
 自民党などの改憲論は国に縛りをかける日本国憲法の性格を180度転換し、国民の義務規定を書き込もうとしています。これは、近代立憲主義の精神を投げ捨てるものであると言わざるをえません。

●憲法批判は誤り
 憲法九条は国連憲章とも深いかかわりがあります。9条1項(戦争放棄)にある「正義と秩序を基調とする国際平和」とは、国連憲章一条にある国連の目的をさします。「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」は国際粉争の平和的解決を義務づけた憲章2条と重なります。
 いま、改憲論者は「憲法は古くなった」「一国平和主義だ」などと声高に叫んでいますが、これはまちがいです。日本国憲法は国連憲章のさらに一歩先を行くものだからです。
 国連憲章51条は、外国から武力攻撃を受けた加盟国が同盟国とともに反撃する集団的自衛権の行使を認めています。第二次世界大戦後、戦争がなくならなかった最大の要因がここにありました。
 戦後しばらく続いた東西両陣営による冷戦対立、1990年代以降の二国間軍事同盟にもとづく紛争がそれです。 憲法九条は「国権の発動たる戦争」を「放棄」することで、こうした国連憲章の不十分さを指摘しているのです。

●2項改悪のごまかし
 アーミテージ前国務副長官など米政府高官が昨年、相次いで日本政府に改憲を迫りました。1990年代以降、米国は日本に対し、早く集団的自衛権が行使できる国になるよう、一貫して要求しています。
 最近、改憲論者は「9条2項だけを変えるのであれば大したことはない」と憲法の平和主義を守るかのように装っていますが、ごまかされてはいけません。
 イラク戦争は米国が単独で起こすことは不可能でした。そこで、ブレア英首相の「イラクは45分以内に英国を攻撃できる」という虚偽報告を機に、予測される(同盟国への)武力攻撃に対処するために集団的自衛権を行使するとして、イラクへの攻撃を開始しました。
 日本では有事法制の整備がすすみ、武力攻撃事態が予測されると判断されればいつでも米軍とともに「自衛」のための軍事行動ができるようになりました。さらに自衛隊を軍隊として海外に派遣できるようにするためには、9条2項の改悪が必要なのです。
 ユーラシア大陸の東側ではベトナム戦争以後、大きな戦争は起きていません。今後も戦争を起こさせないために、日本国憲法の役割は重要です。9条は東アジアの戦争と平和の分岐点であることを強調したいと思います。【連合通信】
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