核兵器なくせ≠ヘ国際世論
8月4日から原水禁世界大会 |
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世界代表団は300人にも
60年前のあの日 1945年8月6日午前8時15分、広島。ウラン235型の原爆は上空580メートルで炸裂。その瞬間、中心温度が数百万度にも達する小型の太陽が発生しました。1秒後、火球は直径280メートルに膨れ上がります。爆心地直下の地表は数千度の高熱で焼かれました。屋外にいた人は瞬間的に蒸発。即死を免れた人も熱線による重度の火傷で次々に死んでいきました。 爆風は風速400メートルにも達し、建物の9割が破壊。街は瞬時にして廃墟になりました。火災がいたるところで発生し、倒壊家屋の下敷きになった人は生きながら焼かれて死んでいきました。 ![]() 広島よりも大型のこの原爆は、上空500メートルで炸裂。長崎の街は大火球におおわれました。 45年12月末時点の死者は広島=14万人、長崎7万人と推計されています。 他の兵器と違う原爆の恐ろしさは、時間をかけて被爆者を殺していくことでした。外傷がなく、救助に奔走していた人が数日から数週間後に「急性障害」で死亡。被爆から数年も経ってから白血病やがんで亡くなる人が大勢出ました。原爆被害は、いまも続いています。 核兵器廃絶の約束は… 2000年5月、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の核保有5カ国は核不拡散条約(NPT)再検討会議の場で、核兵器廃絶の「明確な約束」をしました。 ところが、5年がたった今も、米ロとも1万発以上の核弾頭を持ち続けています。今年の5月、NPT再検討会議がアメリカ・ニューヨークで開催されました。「核兵器廃絶」へどんなプロセスが合意されるのか、世界から注目されていました。しかし、アメリカなどの妨害でその願いは砕かれました。 そればかりか、米ブッシュ政権は核兵器による先制攻撃戦略を打ち出し、より使い易い新型核兵器の開発も進めています。 広島・長崎を1つにした大会に… 被爆60周年、広島と長崎で開かれる原水爆禁止世界大会では国内外の人々との新たな共同と連帯、運動の強化などを確認し、核兵器廃絶を求める国際的世論をさらに大きくする決意を固めあいます。 世界大会には、5月のNPT(核不拡散条約)再検討会議を破たんさせた米国の横暴に抗して核兵器廃絶の流れを確かなものにしようと、300人を超える海外代表が参加します。新アジェンダ連合に加盟するエジプトの政務次官、5月1日のニューヨーク行動を組織した全米平和正義連合の代表も参加します。 関連行事として、フランスや韓国など海外から多数の若者が参加する「核兵器なくそう・世界青年のつどい」が初めて開かれます。 アメリカ代表迎えピースinキョウト 6カ国の青年がパネル討論 ![]() アメリカの代表は「一人ひとりの力は弱いが集まれば大きな力になる。憲法の学習をし、デモなどを繰り返すことで戦争を防止する力になる」とのメッセージを寄せ、参加者全員で「ジャスティス」の唱和をしました。つどいの終了後、ピースウォークを行ないました。 代表派遣(バザーやカレー、平和納涼船など…) 原水禁世界大会には、府職労から18人の代表が参加します。代表を派遣するために職場では平和バザーやカンパ活動がすすんでいます。府税支部南分会では、すでに代表を決め19日に平和コンサート、21日・22日に平和バザーを行いました。女性部の飲み物とお菓子のセット、高知のコンブ、分会員の家庭菜園ハーブなどもちより品、それ以外にも多彩な品揃えとなりました。 医大支部は、2人の代表を派遣するため29日にカレーとコーヒーセットの販売を準備中。実行委員会が結成され30人が加わり、300人の予約運動にとりくみでいます。 舞鶴支部では平和納涼船、丹後支部は平和の鐘つき、福知山支部は沖縄劇、亀岡支部は平和バザーなど計画しています。 |
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