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8月6日、広島は生き地獄だった
つらさ乗り越えて いま生きる

亀岡支部で被爆者体験を聞く平和の集い


 亀岡支部は25日、平和の集いを開催。被爆者から被爆体験を聞きました。
 Oさんは、1945年8月6日、広島で被爆しました。小学校6年生でした。長く被爆体験を語ることをためらってきました。つらい出来事を思い出したくなかったからです。大阪から京都に来て「原爆被災者の会」の常務理事に就任、被爆者と共に広島に行くことになって「2度と同じことを繰り返してはならない」「今語らねばいつ語る」との思いからつらいあの日を語ります。

 わたしの家は川の前でした。爆心地から2・3キロ離れています。学校は夏休みで、近くのお宮さんで国語と算数の勉強会がありました。近くの同級生を誘い行くと空襲警報のサイレンが鳴り出しました。
 サイレンはなっても実際に空襲があったことはあまりなかったので、防空壕に避難することもしませんでした。偵察機が3機飛び去ったあと、サイレンはやみました。その瞬間から、町は日常にもどり会社に行く人は道を急ぎ、家では洗濯物が干されました。
 その時です、上空から落下傘とともに何か落ちてくるのが、遠くに見えました。そして「ピカッ」と光りました。カメラのフラッシュが目の前で光ったようでした。太陽が目の前にきたようでした。目がくらみました。あたりが真っ暗になりました。

 耳と目を手で隠し、その場に伏せました。どれくらい経ったのでしょうか、子どもの泣き声で意識がもどりました。夢中で家に帰りました。家は、お店にしようかと一階はガラス張りの土間にしてあったんですが、ガラスは粉々です。
 しばらくすると、上半身は焼けただれた皮膚をたらし、腰から下はぼろをまとったような人たちが爆心地からぞろぞろと歩いてきます。海に向かっていました。そのうちの一人が、私の家の土間に座り込みました。粉々のガラスの上です。
 それを見たおじいちゃんが、茣蓙を敷いてやりました。何人も茣蓙に座り込みました。地獄絵のようです。お母さんは、私の服や浴衣をその人たちに渡していました。「私の大事なものなのに、お母さんは何するの」と思いました。そのお母さんの姿は今でもくっきり思い出します。川には、死体が浮かび、海のほうに流れていました。
 一晩中、広島の街は燃えていました。

 そのうち、私は吐き気と高熱と下痢に襲われました。腕を見ると焼け爛れていました。毛が抜け出しました。もう死ぬのかと思いました。おじいちゃんとお母さんが私の葬式のことを相談しているのが耳に入りました。

 でも私は、生き延びることができました。被爆体験は長いこと私の胸の中でした。しかし最近、ドイツのテレビ映画で放送されていましたが、ヒトラーの戦争犯罪について「子どもたちに私たちが語り継がなければ、子どもたちに未来はない」というセリフがありました。これが力になりました。核兵器はいまだになくなりません。アメリカが核兵器を持っている限り他の国になくせといってもだめです。そのことに悲観することもあります。
 しかし、日本の憲法九条を世界に広めるとほんとうにいいと思うようになりました。そのことが可能になれば、希望が持てます。
 「2度と過ちは繰り返さない」との思いで私の体験を語り継ぎたいとおもっています。



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