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核兵器廃絶の扉を開こう |
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ヒバクシャ国際署名推進へ |
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原水爆禁止2016年世界大会(日本原水協などの実行委員会主催)の広島大会が8月4~6日に開かれた。オバマ米大統領の訪問で被爆地広島への注目が集まる中、参加者は核兵器をなくすための世論を作り、核のない世界への扉を開こうと確認しあった。 主催者を代表して冨田宏治関西学院大学教授(国際会議宣言起草委員長)があいさつした。昨年の国連総会で核兵器禁止条約の締結に向けた交渉開始を求める決議が採択されたことを「大きな前進」と評価。「国連では核なき世界を実現させるための具体的な議論を行う作業部会が見解をまとめた。今秋の国連総会に向け、核兵器禁止・廃絶を求める世論を作ろう」と呼び掛けた。 元国連軍縮問題担当上級代表のセルジオ・ドゥアルテさんが発言。「国際社会において核兵器保有国と(軍事)同盟国は今守勢に立っている。核兵器廃絶のために活動する皆さんに心から敬意を表する。その信念と心意気を高く持ち続けてほしい」と励ました。 日本被団協代表委員の岩佐幹三さんらが、草の根から核兵器禁止・廃絶条約締結の交渉開始を後押しする「ヒバクシャ国際署名」の取り組みを訴えた。広島県被団協の佐久間邦彦理事長は「国際署名が核兵器廃絶のための確かな一歩となること」を願い、署名推進を呼び掛けた。 ■被爆体験どう語り継ぐか/2016年世界大会の分科会 日本原水協などの世界大会実行委員は8月5日、広島市内で分科会「被爆体験の継承・実相普及と援護連帯」を開き、高齢化する被爆者の体験をどう語り継いでいくべきか議論を交わした。 原水協専門委員で、被爆者の支援活動を行ってきた伊藤直子さんは「被爆の体験を聞いて、映像や文章で残したりすることが大切」と指摘。「71年間に被爆者は自ら権利を勝ち取ってきた。語りを続けて交流も広げてきた。被爆者の人生は決して惨めではないことを知ってほしい」と述べた。高齢化に伴って解散する被爆者組織が増えている現状にも触れ、「被爆者と日常的につながりを深めていく活動が必要」と話した。 会場からは被爆2世・3世の取り組みや若い世代への語りの継承が必要だという声が相次いだ。愛知県から参加した大学生は「国の起こした戦争で被害を受けるのは子どもたち。未来の世代を守るためには無知ではいられない」。 8歳のとき広島市内で被爆した木村緋紗子さんは「被爆者の数だけ被爆の実相は違う。広島、長崎(の被爆)について考えることは未来を考えること」と話し、被爆体験を語り継ぐ運動の拡大を求めた。愛知県原水協の大村義則代表委員は、被爆者だけでなく一般の人も被爆体験を語り継ぐことはできる。今日の聞き手は明日の語り部だ」と語った。 ■〈被爆者の体験〉母と友人を亡くして/広島被団協の高品健二さん 8歳のとき、爆心から2キロで被爆しました。右の顔半分にガラスが刺さり、両耳から血が流れ、今でも聞こえない音のトーンがあります。 ▼一人で生きなくては 防火用水のところまで友人を探しに行ったのですが、彼はガラスの破片と熱線で体の半分がぐちゃぐちゃになっていました。彼を運んで家に戻ると、中は爆風で壊れ、母は柱の下敷きになっていました。親戚が持ってきたリヤカーに2人を乗せて、広島駅の方へ向かいました。 途中の避難所で数日間を過ごし、友人には3日目にもらったトマトを食べさせてあげました。その頃はもう目が見えていなくて、「トマトはこんなにおいしかったのか」と言い、気付いた時には息を引き取っていました。遺体は兵隊に引き取られ、今もどこに埋められたのかわかりません。無縁墓地のどこかに入っていると思います。 その後、母に血便が出て、歯茎から出血をするようになりました。当時は気付きませんでしたが、これは原爆症の症状です。母は枕元に私を座らせて「お前は今から一人で生きていかなきゃいかん。人から後ろ指を差されることなく生きていけ」と言い残して息を引き取りました。この母の言葉は私の人生の宝物です。 ▼死臭が漂っていた街 骨つぼに母の骨を入れ、3日ほど市内をさまよっていました。広島の街は死臭であふれていました。被爆した人の傷口には、ハエが卵を産み付けて、そこからウジが湧くのです、でもそれを取る気力もない。 原爆の熱線が降り注いだ当時、14~15歳の学生たちに会いました。着衣も皮膚も焼かれて垂れ下がり、そこにリンパ液がたまっていました。みなが赤鬼のような姿になって、命を落としたのです。(8月4日、広島市で開かれた被爆71周年原水禁世界大会で。文責・連合通信編集部)(連合通信) |
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