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核兵器も戦争もNO |
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6000人が非核平和の日本決意 |
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原水爆禁止2015年世界大会・長崎(日本原水協などの実行委員会主催)が8月7日から3日間、長崎市内で開かれた。6000人が参加し、憲法9条を生かした非核平和の日本をつくろうと決意を固め合った。 閉会総会で被爆者の奥村アヤ子さん(78)は自身の体験を証言した上で「戦争の道を開く安保関連法案は絶対に許せない」と発言。「抑止力論の行き着く先には核兵器保有がある」と警鐘を鳴らした。 海外ゲストも安倍政権の暴走を批判。英国の反核団体「核軍縮キャンペーン」(CND)のデイブ・ウェブ議長は「戦争放棄の誓いを無視することは許されざる行為だ」と指摘。「高まる軍国主義に反対する闘いを私たちは支援する」とエールを送った。 各地の代表団が草の根の運動を報告した。4月に国連本部に提出した核兵器廃絶を求める署名で全国最多の93万筆を集めた大阪代表団が登壇。祖父が広島で被爆したという男性は、「被爆70年の今年、被爆者の思いをもっと広げていこう」と呼び掛けた。 原水協の安井正和事務局長は「この集会を契機に被爆者の体験や願いを全ての市民に伝え、被爆の実相を徹底して広げよう」と訴え、大会決議を提案。「戦争するな」「核兵器なくせ」とアピールする「長崎からのよびかけ」を採択し大会を締めくくった。 〈被爆者の証言〉/「ずっと平和であってほしい」/長濱キミ子さん(83) 当時のことを思い出したくもないし、人前で話すこともありませんでした。しかし、身をもって体験した者として戦争の恐ろしさ、平和のありがたさを伝えていかなければと思い、証言します。 ▼先生のおかげで 私は西浦上国民学校(爆心地から1・8キロ)に通う中学2年生の13歳でした。70年前のあの日、午前10時ごろでしたか、担任の田中先生は「今日はもう帰りなさい」と生徒たちに話しました。1年目の若い女性の先生でした。 午後に再登校となるだろうと思ったので、隠れて学校に残ることにしました。私が住んでいた川平町は学校まで歩いて片道50分以上。とても遠いので再登校するのがいやでした。同じ町に住む友達5人組で用務員室でおしゃべりをしていたら、田中先生が来て「早く帰りなさい」と注意しました。それでも「午後までここにいます」とおしゃべりを続けました。田中先生が3度目に用務員室に来たときのことです。「早く帰りなさい。あなたたちが帰るまで先生はここにいます」といつも優しい先生が強い口調で言ったので、追い出されるように学校を出ました。 学校帰りに近くの商店で一升のしょう油を買って、大きな木の木陰に立っていた時のことです。少し赤い色がいったん黄色になる、ものすごい光が見えました。何が起きたかわかりません。気がついたら4メートルほど飛ばされていました。 近くの防空壕に逃げました。そこにいた人に「あんた何したとね。黒くなって」と言われ、しょう油を買ったことを思い出しました。飛ばされた時に瓶が割れて、服が真っ黒になっていたのです。私たちは逃げることに必死で、誰一人としてそのことに気がつきませんでした。防空壕の中でも恐ろしさで体ががたがた震えていました。「また爆弾が落とされる」と心配で震えはしばらく止まりませんでした。 私たちを見送った田中先生はどうなったのでしょう。学校はぺしゃんこ、大きな柱の下敷きになってしまいました。先生は「助けてください」と大きな声で叫び続けていたといいます。5時間後に助け出された時には力尽きて、亡くなってしまいました。強い口調で私たちを学校から追い出し、身代わりとなってくださった田中先生を一生忘れることはできません。 ▼戦後も健康不安 家に着いた途端、急に具合が悪くなりました。どこが痛いというわけではなく、吐き気がして気分が悪いのです。40日後にはにきびよりも大きな吹き出物が全身にできました。それ以降、風邪でもひくと「原爆症ではないか」「いつ死ぬのか」と悩まされるようになりました。 原爆症を恐れて結婚しなかった、子どもを産まなかった同級生もいます。今もなお病気で苦しんでいる人もいます。なんと恐ろしいことでしょうか。ずっと戦争のない平和であってほしい。世界中の人が平和に過ごせるよう願います。(8月8日、長崎市・長崎ブリックホールで。文責・連合通信編集部)〈連合通信〉 |
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