忍びよる戦争の足音 戦争の「ネセサリー・コスト」とは何か


ルポ戦争協力拒否

吉田敏浩著

 イラクへの自衛隊派兵、有事法制の成立、国民保護条例の実施・・・日本は戦争しない国から戦争する国へと変容しつつあります。
 1977年からビルマ、タイ、アフガニスタンなどアジアのさまざまな民族を訪ねるフリー・ジャーナリスト吉田敏浩さんが、自衛隊員やイラク派兵に反対する市民団体などへの取材を通じてこの国の危険な「歩み」とそれに反対する運動を紹介しています。
 かつて防衛庁長官だった久間自民党衆議院議員は「国家の安全のために個人の命をさし出せとは言わない。90人の国民を救うために10人の犠牲はやむを得ないとの判断はあり得る」と述べたという。
 著者は、「要は国民の9割が助かるためには、1割が犠牲を強いられてもやむを得ないと言うことだ」と指摘、1億人の1割1000万人が犠牲になってもいいと言うことではないか。
 アメリカのブッシュ大統領周辺では、「テロを撲滅」するために「ネセサリー・コスト」という論理がまかり通っていると言います。アメリカのファルージャへの無差別爆撃、イラクの子どもたちの犠牲は「必要コスト」と言い張る米兵の声を紹介しています。とんでもない戦争の論理ではないだろうか。日本も同じ論理で、アメリカの言うがままに戦争する道へ突き進んでいることを知ることが大切です。
 筆者は、あとがきで1987年にフィリピンのレイテ島からミンダナオ島に移動しているとき名前を聞かれ、「ヨシダ」と答えたという。そうすると「戦争中、俺たちの村にキャプテン・ヨシダに引き入れられた日本軍部隊がやってきた。村人を殺したり、略奪したり、家を焼いたり、悪いことをたくさんした。おまえの父親ではないか」と言われた経験を紹介しています。
 日本が2000万人以上のアジア人の命を奪った歴史をアジアの人たちは決して忘れていません。
 ルポ「戦争協力拒否」では、戦地への出張を命じられる会社員、封じられる反戦への意志、派遣命令に苦悩する自衛官と家族などの実態を浮き彫りにし、日本が再び戦争の加害者とならないためにどうするのか、各地のとりくみやたたかいを紹介しながら問いかけます。
 作家・斉藤貴男さんは「安心のファシズム」という本を岩波新書から出しました。「安心・安全」の名の下にどんどんとファシズムが進行している実態に警鐘を鳴らしています。
 京都では、4月1日から四条通の烏丸から鴨川までに50メートルおきの「監視カメラ」が設置されました。このデーターがいつ、何に利用されるのか、どう処理されるのか、安全に廃棄・抹消される補償があるのかは疑問です。
 いま、進行している事態を冷静に過去の歴史と照らし合わせながら見つめるときでないでしょうか。そんな力になってくれる新書です。
目次へ