1961年10月 婦人部結成

婦人部結成の背景

 60年「安保闘争」は日本の民主運動、労働運動を大きく高揚させる歴史的な闘いでした。こんな大事な闘いやのに「早く帰らんと子どもが待っている」「保育所へ迎えにいかなあかん」というて帰らんなんのかなんなあ。と、いつも思ってました。その頃は一時婦人の採用が中止されていた事情もあって子持ち婦人が多くなっていましたし、職場では万年主事補の状態に置かれるなど、いっぱい不満があったのにこんな闘争に参加できない。婦人の問題を何でも話し合える婦人部をつくろうという動きが活発になってきました。

1978年発行 「民主府政と婦人の権利」

婦人部結成大会の宣言から

「高物価・低賃金、人員不足などあらゆる問題のしわよせを直接うける私たち婦人労働者は、前を向いて進む以外に道がないことを自分たちの生き方として、身に付けることができました。」

1964年 妊婦の通院時間、育児時間、結婚休暇などの休暇を確認

(結成交渉での知事の約束)

「社会的にも家庭にも職場の環境一つとってみても婦人が働ける状態にない。これを改善するために一歩でも、半歩でも前進する」
  先輩たちの粘り強いたたかいと、知事のこの前向きな姿勢、そして京都の民主的な力が一つになり、授乳時間の運用(現・育児時間)、乳幼児予防接種の専免扱い、結婚休暇の設定、つわり休暇(現・妊娠障害休暇)、通院休暇の運用、産休代替職員の獲得、事務服の獲得、吉田乳児保育所の設置など、全国トップレベルの権利に前進したのです。

 更衣室設置、男女別便所の完備などもこの頃の要求前進です。

1964年  婦人労働者の諸問題に関する「第2回国際労働組合会議」(ブカレスト)に代表派遣

1966年  「アジア・アフリカ労組会議日本準備会 婦人訪中代表団」の一員として代表派遣

 5歳と3歳の子どもがいたが、1ヶ月近い留守を姑と夫が引き受けてくれた。
乾いた砂が水を吸うごとく、すばらしい吸収力で社会主義体制の国を見てきた。各省、各地で熱烈歓迎、労働者同志の連帯は感動的だった。それ以上にうれしかったのは府職労婦人部の対応だった。「見送れず残念。6千の思いを送る。固くならず積極面を伸ばしご奮闘を祈る。・・・。」「代表団お帰りなさい。・・・新しい意見が私たちの運動にプラスになることを期待しています。」要所要所に電報が届いていた。その思いとセンスを他労組はしきりに評価してくれた。

1968年 産後8週間の休暇を制度化

 「トイレを男女別に」といった共通の要求もですが、「子どもが病気のときはそばにいてやりたい」「プール当番に出てやりたい」一人の組合員が抱えている悩みや要求を支部と本部が連携して取り上げました。個人的に見える要求も職場でよく話し合いました。産後休暇6週間で母体は回復するか―働く母親は医師の意見を聞き、診断書をとり、支部と本部で保健所長や専門医の意見書をとって交渉を積み重ねました。勝ち取った権利はどんな職場でもとれるようにする取り組み、覚書から規則化までには、粘り強い運動の深さと広がりが必要でした

1969年 府庁周辺に保育所を作る運動

産休明けが近づくと、婦人部の役員さんが「赤ちゃんどうするの?保育所あるの?」と気を配ってたずねてくださいました。保育所設置要求が京都市内のあちこちから出ていました。タクシー代を道にばらまきながら実家に子どもを預けて保育所に欠員が出るのを待ちました。

そんな時、「保育所運動は要求がある人がやらなければ」というわけで、すすめられて、府庁周辺に保育所を作る運動に関わることになりました。労働組合が地域の保育所つくりに関わる例はそれまでなかったのですが、婦人部はもちろん、本部も大きな力を発揮しました。府庁の近くにある中立保育所は、京都府が土地を提供し、京都市が建物を建て、働く者の要求を解決する立場で実現したのです。1974年12月10日が竣工式でした。先輩の皆さんが、要求運動を起こされてから9年ぶり、私が関わりはじめてから6年目のことでした。その日いろいろな思いが涙になって溢れました。

保育運動は、「保育料は2子以上は半額にしてほしい」「長期の休みに対応する共同保育」「保育時間の延長」などさまざまな願いを実現するために粘り強く、長い闘いが必要でした。

 これら保育所運動は、どの地域でも同じようなとりくみがあったことと思います。要求を持っている者を中心に、ねばり強い運動を具体的にすすめ実現してきました。お腹のすいた子どもをつれて交渉をやり、暗い夜道を自転車で前後に子どもを乗せて帰っていった母親たちには、その恩恵は少なく、むしろ今日の若い母たちが受けています。それは婦人部の既得権にもいえます。このことを後輩の皆さんに知ってほしいと思うのは、私たちも先輩の運動の恩恵を受けてきましたし、婦人が働きつづけられ、女性に光のあたる社会を築く婦人労働者になってほしいと願うからです。

1971年 婦人の疾患に関する検診の開始
1973年 産前休暇の8週間を規則化
1975年 男性に出産補助休暇実現
1975年 国際婦人年記念 蜷川知事と婦人部の懇談会
1976年 看護婦などに育児休業制度化

1977年 妊娠障害休暇制度化

「妊娠・出産」という「女性特有の機能に起因する休暇が、年休や特別休暇で、しかも長く休めば給与の減額になるのは不合理」と、長年の女性の要求が実り、妊娠障害休暇として制度化されました。

「条件の悪い婦人に焦点を合わせてきた婦人部では、この制度化にあたっても『1月1日に受胎した人が、全妊娠期間休んだとしても不利にならないように』と、覚書の表現を『てにをは』に至るまで鋭い詰めが続けられました。

1982年 第2回国連軍縮特別総会(ニューヨーク)に代表派遣

1988年 看護欠勤の制度化

 「子どもが、家族が病気の時には安心して休める休暇がほしい。」婦人部結成の翌年の要求書に掲げられたこの願いは、その後、ほんとにねばり強くとりくまれました。子どもの長期にわたる病気や障害、老親介護に直面した女性の必死の訴えにも、「京都府は、職員の家族のことまで責任を持つ立場にはない。」と、交渉は平行線でした。それでも女性たちはあきらめず、「この制度がなければ、退職せざるを得ない」と、毎回の交渉に体験者の声を集め、他労組に呼びかけ、署名を集めての府議会請願など、思いつく限りの取り組みをしました。

国際障害者年の年明けに生まれた次男は、手に障害をもって生まれてきました。障害を軽くするために2回の手術が必要で、1回の手術に1ヶ月の入院を要するといわれました。この時、婦人部では看護休暇を要求し、運動を広げている時でした。まだ、ことばもない子が手術で頑張っている時、親として側にいてできるだけのことをしてやりたいと思い、私が直面している状況を管理部長交渉で訴えました。結果的には、現制度にはとても及ばない内容でしたが、そのことを通し、いろんなことを学ぶ機会になりました。

この交渉の時、話をしたこともない婦人部役員の方から寄せられた色紙の中の寄せ書きは、私を暖かくつつみこみ、はたらく婦人として強く生きていくことを力づけてくれました。

また、職場の婦人部の方からは、長い入院生活中に、励ましの手紙やオモチャなどを送っていただき、遠い地での親子二人の入院生活がどんなに支えられたかわかりません。

1989年 一般職員に育児休務制度実

家でも、職場でも、目の回るような忙しさに追われながらも、子どもの笑顔に救われことの多い毎日を送る、子育て中の女性たち。“まるで綱わたりの毎日”をやりくりし、仕事をもっていることの喜びと、切なさを交互に味わう時期。

「産休明けから預けられる保育所がないと仕事を続けられない」、「せめてしばらくは母乳で育てたい」「看護婦さんたちには育児休暇がある、子育ての願いは同じ」と、はたらきつづけたいと願う女性の要求が力となり、府独自の育児休務が制度化されました。

1992年 育児休業法成立  育児休務制度→育児休業へ

1994年 男性にも育児時間適用

女性も男性も、人間らしく健康にはたらきつづけ、仕事も家庭も社会生活も共同して築いていける条件整備と世論づくりこそ「男女共同参画」の基本と、考えた私たちの運動が着実に前進しています。

育児時間、育児休業、介護休暇等、家族的責任を果たすための制度は今、男女ともに取れる制度になりました。しかし、まだまだ、男性の行使が少ないのが現実です。

1995年 介護休暇が新制度に

京都府の看護欠勤など、全国に先駆けた独自の制度が広がり、介護休暇が制度化されました。

「介護のための制度がなければ働きつづけられない」と、ねばり強く取り組みを続けてきた女性の願いが通じたうれしい制度化でした。

1995年 「わたしの証言」〜「平等・開発・平和」第4回世界女性会議にむけて〜 発行

私の職場でチョット気になることです。
 @      業者の方が名刺を置いていかれるとき、どうして女性の席はとばされるの?別に名刺が欲しいわけじゃないけれど・・・。
 A      出張や旅行のおみやげを女性のところへ持ってこられて「配ってくれる?」自分ももらうのでありがたいけれど、でもどうしていつも私が    配るの?仕事の会議のことで。
 公務員は比較的平等のはずなのに、会議への女性の参加が少ないし、私が参加すると「あらっ、京都府は女性?」と、男性が変な顔をされることもあります。 また、内部の打ち合わせ会議でも女性が「留守番」になることが多いです。

1995年 第4回国際婦人年世界会議(中国)に代表派遣

「京都らしく、海外代表にステキなお土産になり、しかも職場からの運動になるもの」と、職場の女性一人一人が作ってくれた姉様人形のしおり。とてもたくさんだったので、他の荷物を出して詰めていきました。「NOモア広島! NOモア長崎!」と署名を訴え、手渡したしおりはそれはそれは好評でした。他の代表からも「府職労はきめ細かい心遣いがすごい」と、うらやましがられたものでした。

1996年 庁舎内分煙の開始、喫煙コーナーの設置

「紫煙たなびく職場」があたりまえの頃、妊娠中の女性は、胎児に影響が出ないかと心配の毎日でした。妊娠中に限らず、「においが嫌」「なぜ、吸ってもいない灰皿の後始末まで女性がするの」「他人のたばこで健康を害したらどうしてくれるの」と、女性の間では話が出るけど、「愛煙家との摩擦は避けたい」「吸う人の権利も守らないと」と、議論百出。

世界禁煙デーには、女性が府庁東門でのビラまきなどをし、徐々に世論が高まってきました。

1997年 女性部へと名称変更

1998年 夫婦別姓など事実婚にも互助会手当金

1999年 育児・介護中の男女職員の時間外・深夜勤務の制限

2000年 育児休業者の期末・勤勉手当の不合理是正

2000年 世界女性行進 終結集会(ワシントン・ニューヨーク)

私たちの行進中のシュプレヒコール「ノーモア広島、ノーモア長崎」に、あとに続く国の人たちも一緒にあわせてくれた。言葉はちがっても思いは一つなんだ。ワシントン集会は5000人、ニューヨークは20000人、世界各地からいろんな思いを持って集まりました。支部ごとのメッセージを縫いこんだ府職労女性部のパッチワーク。どちらの集会でもこのタペストリーは注目の的で、行進中、「カメラに撮らせて」と止められ、歩くのが遅れてしまうほどでした。

2002年 育児休業、介護休暇、育児時間の拡充、子の看護休暇、旧姓使用を制度化