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ひまわり2005年5月30日号

母親運動と府職労女性部
1955年6月5日、第1回京都母親大会「京都母親のつどい」400名で開催
前日、「府庁母親のつどい」を開催し、京都母親のつどいへ参加
職場だけでは解決できない「24時間の要求」を大切に

1960年小児マヒが大流行 患者5544人死亡312人
「ソ連の生ワクチンが効く」ことを知った母親たちは、当時、国交がないから」と拒否する政府に向け、生ワクチン輸入の大きな運動を展開
 京都府(当時、蜷川民主府政)は、厚生省に輸入を強く要請 接種のための予算化 「厚生部長をソ連に派遣する」と発言。母親たちを勇気づける役割を果たした
 厚生省交渉には府職労からも参加

1962年関西での日本母親大会 分科会(京都)全体会(大阪)参加者3万人に。質・量ともに飛躍的な発展。府職労は地元連絡会として大切な役割を果たし、当日は府職労始まって以来といわれる600名の参加。この大会に向け、各支部でも地域の運動に参加していくきっかけになった。
この大会に向け、支部で小集会を積み上げ、ほとんどの人が大会に参加
この中で、地域の人々と肩ひじはらずに話し合い、行動する組織になっていった

大会の中で出された「保育所要求」運動の中心として活動 
  • 「西陣に保育所を」の要求から「府庁周辺に保育所を」と発展−府職労は事務局長を引き受け、10数年のたたかいで中立保育所設立
  • 「乳児保育所を」の要求−左京の住民の支援も受け、府立吉田保育所設置
 この背景には、「法律よりも子どもを大切にしたい」という蜷川知事の姿勢

1964年〜
  「脱脂粉乳反対」「高校全入運動」などを通じ、男性も巻き込んで子どもたちの学校生活への関心が高まり、「子どもを守り、民主教育を守る」要求が「参観日休暇」へと結実。

母親大会の成功へ 府職労大奮闘

1973年、日本母親大会京都で開催、大会成功のために専従の役員を事務局に送り、地域でも事務局の中心としての役割を果たした。 府職労として349カ所(全体、4571カ所)、4270人の小集会で母親大会の成功に向け他話し合い。この大会には、5000人の男性の支援蜷川知事が感動的な講演を行うなど、全国の母親を励まし、勇気づけ
1974年第20回日本母親大会
 府職労から代表52人参加(近畿開 催以外では最高の参加)20年の歴史を持つ母親運動を学ぶ府職労母親集会に148人参加
1979年地域の母親大会には組合員の7〜8割が参加した支部、日本母親大会に代表を送るため10数万のカンパを集めた支部もあったが、くじ引きで代表派 遣と苦しい支部も。
1980年代
 地協や支部では地域の女性たちに呼びかけ要求小集会開催。様々な支部で、映画会、文集つくり、仕事を生かしての母親運動への貢献、また、母親大会への参加のお誘いも、男性組合委員の家族、仕事のつながりへと広がり、日本大会代表派遣のためのカンパもコーヒーカンパやバザーなど様々工夫を凝らして、職場内外で母 親運動展開
1990年代 母親運動の歴史を受け継ぐ運動として、「母親運動30年」の5本のスライドフル回転。1991年第37回日本母親大会を 京都(分科会)大阪(全体会)で開催するに当たり、前年の千葉の取り組みに学ぼうと、県職婦人部役員を招いて学習
1995年第40回京都母親大会成功 に向け、他団体とともに府内各自治体へキャラバン要請行動
1990年代、府職労は「8の日宣 伝行動」で母親大会のビラを配布して 府内各地で宣伝行動 *2003年日本母親大会、秋田で開催10人の代表派遣のために「小泉悪 政一掃歯ブラシ」2500本販売や物 品カンパ、バザーなどで 資金つくり京都母親大会全体会では、パネルを掲げ府の地方機関再編問題を訴え
  
母親運動の原点は平和
2002年第47回京都母親大会は有 事法制を許さない大会と位置づけ舞鶴で地元や近隣支部の大奮闘で府職労か ら92人の参加  
府政の現状を発信、住民に学ぶ
2003年母親大会、秋田で開催。10人の代表派遣のために「小泉悪政一掃歯ブラシ」2500本販売や物品カンパ、バザーなど資金づくり。京都母親大会では、パネルを掲げて府、地方機関再編を訴え